100年路地と町家への想い、なかにわ路地のこれから


投稿 梅岡

現在、“なかにわ路地”と呼ぶ長屋2棟、8軒の住宅は、昭和2(1927)年建築され、当初は北側に音羽川が流れ、中央部が広い立地の路地でした。
現所有者の祖父母が建築し、戦中、戦後直後は叔父たちや両親が受け継ぎ、今に至っています。
昭和30年頃までは路地内中央に井戸水を汲み上げるポンプがあり、野菜を冷やしたり、洗濯をしたりして住人の方々は盛んに利用されていました。
また、子だくさんのお宅も多く、路地内には遊ぶ子ども達の声が響いていました。終戦直前の疎開で転居されてきた家族もあったと聞いています。
路地入口の向かい側は、戦前から3階建てのたばこ工場跡が約100mにわたり残されていて、通りの日当たりが悪く、日当たりの良い路地は
自ずと人が集まりました。住人は伝統産業に従事されている方が多く、清水焼や京扇子の絵付等の作業の様子をよく目にしました。
路地の中央はまさに子どもの遊び場で、まりつき、石けり、縄跳び、ビー玉等の遊びに興じた思い出いっぱいの路地でもあります。
特に幸いしたのは、昭和30年(1955年)代後半時期に、芳野町通りは早く下水道の工事が行われ、路地も水洗化され非常に幸運でした。
その頃は、戦後を共に過ごされた路地内の住人方は結束され、子どものために町内行事をよく催されており、食事会も路地内でよく行われました。

しかし、1990(平成元)年頃になると、少し世代交代が進みました。転居された後の住宅を学生向きの下宿に改装し、勉学に励む女学生さんとの出会いで懐かしい思い出も残っています。
その後、大家族だったご家庭も家族数が減り、一人暮らしになったお宅の引っ越しが続きました。そして、改修を検討する中で、自分自身が子ども時代に嬉々として遊んだ広い路地を何とか残して、住みやすい、安心して子育てができると言ってもらえる住宅に再生していこうと思いました。

そのような時期、区役所主催の「空き家相談会」に参加し、町家の改修制度があることを教わりました。また、経験豊富な方からの助言を受けて、
2軒ある空家改修を行う決心をしました。
それから、約2年間、京都市景観・まちづくりセンターの審査会出席や、京都市の補助金申請を行った後、誠実な仕事をされる設計士さん、路地環境の研究をされている大学の先生方のご助力と、町家保全に詳しい工務店の皆さん、お住まいいただいている住人の方々のご協力に支えらえて、空き家は室内が見事な町家風に改修され、路地内全体は玄関扉、出格子、欄干等が並ぶ、京都らしく、しっとりとした落ち着きが感じられる路地になり、「なかにわ路地」と命名していただき、現在に至っています。

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